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戦争体験記(3)

取材日 2022年11月20日(日)

 「王子区隣組回報」昭和17(1942)年7月) (清水吉一氏所蔵
 「王子区隣組回報」昭和17(1942)年7月) (清水吉一氏所蔵
  兵隊さんの為に頑張る!
  兵隊さんの為に頑張る!
 王子区東十条で戦争を体験したと語る野村さんは記憶をたどりながら、その辛い思いを話した。
王子区はどこに
東京の北部には昭和7年から22年までは王子区と滝野川区と二つの地区が存在。終戦後の昭和23年に統合し東京都23区の一つ北区となる。二つの地区は平らで広く土地環境の良い事から重化学工業中心の街へと発展。そこへ軍需関係の工場もどんどん移転。昭和15年戦争が始まる頃はこの地区は軍都になる
東十条の悲劇
「軍都」の王子区は米軍の無差別都市爆撃の猛威に見舞われる羽目に。 両親が王子区東十条に新築した家に野村さん4人兄弟は10年間住んでいた。辺りは鉄道の大きな車庫もあり男の子には魅力的な街。両親を病死で亡くす悲しい事もあったが、昭和18年までは兄弟仲良く過ごしていた。 昭和19 年1月・サイパン陥落後戦争は悪化するが皆は知らされていない。当時の町会報に物資両面で厳しい統制は当たり前とある。軍需工場周辺特に東十条の住宅地は強制疎開地区となる。(強制疎開とは住居を壊し家族が立ち退く事)家が隣り合っていると、「火が移りやすい」の説明で住民の意見や希望を聞く事もなくとり壊しが始まる。全くひどい、悔しいと語る。
野村さんの強制疎開は
途方に暮れた一家4人兄弟は、泣く泣く離れ離れに疎開。本人は母の実家熊谷に身を寄せた。小学6年生は毎日兵隊さんの衣服の梱包と運搬作業。春の卒業式もなく中学校へ。終戦前夜熊谷も大空襲にあい怖い目にあった。終戦後も学校の運動場で毎日炭焼きをしていたと話す。放課後は電器屋のアルバイトでお金を稼ぐ。
その後
昭和23年、中学校卒業と同時に桜本町の知人を頼って川崎に来る。駅から見る景色は焼け野原だった。川崎はその後急ピッチで大小の町工場の建設が始まり、大企業も増えた。中学時代のアルバイト経験の技術を活かし電器産業に就職。ここで大親友に出会い楽しい会社時代を過ごす。90歳になる今日まで卓球を楽しみ子供の通学見守りを続ける。 
   資料 総務省HP北区における戦災の状況(東京都)
 
  僕の家が壊れる

  僕の家が壊れる

         ここが川崎?

         ここが川崎?

砂田 紘子
シニアリポーターの感想

野村さんに戦争体験を尋ねた時は、話はあまりないと言いながら、生まれた王子区の町を思い出すと辛かった話が始まった。現在の北区の一部は軍都であり激戦地の為市民が呑み込まれていった。今でもそうだが一生の買い物の家がいとも簡単に壊されていく事はとても耐えられないと思う。

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