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戦争体験記 19

取材日 2025年06月02日(月)

インパールへ進軍航路

インパールへ進軍航路

   仲間に入れたらいいな!

   仲間に入れたらいいな!

    もしやお父さん⁈

    もしやお父さん⁈

   私は、昭和10年代生まれの方に会うと、お父さんは戦争に行きましたかと問うのが常。すると 「父は、終戦後ビルマから帰ってきた」と話すAさんに出会えた。Aさんは、父から「インパール」と言う語句は耳にしたが、戦争の事は何も聞いていない。父が出征していた時は、川崎から群馬に疎開し、その時苦い体験したと語りました。


   「疎開先の思い出」
 Aさんの父は1919年(大正8年)生まれ、1943年(24歳)川崎からビルマに向け出征。母とAさんは父の実家群馬に疎開した。 祖父母はとても優しく、生活に困る事はなかった。近所には、仲良くしてくれた娘もいたが、やんちゃな子にいじめられた。なかなか遊び仲間に入れてもらえなかった。仲間に入りたいなら、干し芋を持って来いと脅かされた。(群馬は、甘い干し芋が美味しく有名)悪い事とは 分かっていたが、祖父母手製の干し芋を数回拝借。仲間に分けた。祖父母は、干し芋が少なくなっているのに気付いていた筈だが、咎める事もなく黙って許しくれていた。

    「父帰る」
  終戦から2年たって、父がビルマから引揚げ、大宮駅に着くと報せが届いた。私は母と迎えに行った。駅で出会った父は、大きく見えた。「この人お父さん⁈」と不思議だった。後でビルマから兵士が帰って来ることは奇跡に近いことだと知る。 (ビルマは、ミャンマーの旧国名。当時はイギリスと日本の占領下にあった。)


   「インパール作戦」
  旧日本軍がインドとビルマの境界インパール(インド)に侵入しイギリス軍を撤退させようと戦った。   

 昭和18年、この戦いに約33万人の兵士をミャンマーに投入する為に全国から招集した。始めは優勢だったが、昭和19年3月日本軍は、更にビルマ国境を越えインパールを目指し進軍。インパールに通ずる道は、熱さ、疲労、飢え、マラリア病等劣悪な環境。イギリス軍の守りは意外に固く、力尽き7月に撤退。密林の中で、多くの兵士が命を落とした。後に白骨街道と呼ばれた。旧日本軍による最も無謀な戦いの一つ。19万人以上が命を落とし、生還率は三人に一人。 生き残った兵士は隣国タイに向け命からがら逃げたが、イギリス軍の捕虜となり収監される。この時の兵士の状況が題名「ビルマの竪琴」として映画化されている。
 あらすじ(終戦を知り生き残った兵士は、捕虜となりながらも日本に帰る日々を待っていた。収監の塀越しに「一緒に日本に帰ろう」と一人の兵士水島に呼びかけるが、ここで亡くなった兵士の魂を弔うと最後まで、呼びかけに答えなかった。)
 
砂田 紘子
シニアリポーターの感想

 インパール作戦の敗退で、国民の中には、薄々この戦いは負けるのでは、と考える人がいた。戦力が弱体化しても士気を高め、多くの国民が兵力として駆り立てられることになったきっかけでもある。