家の周りの池・畑・庭は自給自足の格好の場所。父は、この敷地で採れる僅かな生産物を、近所の人にも売っていた。
池とは焼夷弾が落ちて出来た穴に雨水が溜まったもの。アヒルを飼った。手はかからないどころか、大きな卵を産む。ドジョウ、ナマズ、食用ガエル等が生息。私は、これらの姿が不格好で、好きではなく池には寄り付かなかった。
にわとりも小屋を作り飼った。これらの卵は売り物にも。アヒルの卵はどぶ臭く好きでなかった。卵を産まなくなると、にわの端っこに吊り下げ夕食のおかずに変身。この光景は強烈で、小学生の食欲をそいだ。今も鶏肉は好きではない。
山羊・兎も飼った。山羊の乳は沸騰させ、雑菌を取り除く。病人の栄養になると喜ばれた。兎をおもちゃのように可愛がり草を食べさせた。大きくなると襟巻の業者に売られていった。
畑には、金柑の木が数本あり、おやつは、自分でもぎ取り食べるように言われていた。毎日の事だから、やはり飽きてしまい、今も金柑には手が出ない。
小学校の記憶
昭和21年第2小学校に入学した。2年生になり、校名が宮崎市立小戸小学校と変わり違和感を覚えた。戦前までは学校の名称は管理しやすい数字が付いていた。戦後は地名や区名に変更したのだ。
ランドセルの代用は、兄が身につけていたカーキ色のカバン。これでは味気ないと、ふたに赤い椿の刺繡をあしらったものを背負った。教科書は、どこからか借り、粗末な紙に移したものだった。授業は午前・午後組の2部制。6年間裸足で過ごした。
私の洋服は姉妹のだぶだぶのおさがり、ところが24年天皇陛下の地方巡行で参列と聞いた母は、早速気に入っていた絽の着物を私の洋服に仕立てた。炉は透けて見え、そのニュウ・ファッションに大喜びした記憶がある。