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戦争体験記 20 (私の終戦時)

取材日 2025年08月07日(木)

昭和19年兄の出征時の家族写真

昭和19年兄の出征時の家族写真

   自給自足をを助けたキャラクター

   自給自足をを助けたキャラクター

    赤い椿のカバン

    赤い椿のカバン

 
 終戦から1年後の昭和21年、私より15歳年上の二人の姉は代用教員をやめて家に帰ってきた。出征した兄も、幸運にも帰還した。7人の大家族となる。父は池と畑付きの中古2階家を購入。3年後には、結婚適齢期の長女はシベリア帰りの兵士と次姉と兄は、遠縁と結婚。いずれも父が一人で決める。
  当時は大きい台風が何回も襲った。ガタガタの中古の家が水浸しになる事も。何といっても、食料の困窮はひどく、自給自足が続く。
 
 
     自給自足の生活  
 家の周りの池・畑・庭は自給自足の格好の場所。父は、この敷地で採れる僅かな生産物を、近所の人にも売っていた。  
 池とは焼夷弾が落ちて出来た穴に雨水が溜まったもの。アヒルを飼った。手はかからないどころか、大きな卵を産む。ドジョウ、ナマズ、食用ガエル等が生息。私は、これらの姿が不格好で、好きではなく池には寄り付かなかった。
 にわとりも小屋を作り飼った。これらの卵は売り物にも。アヒルの卵はどぶ臭く好きでなかった。卵を産まなくなると、にわの端っこに吊り下げ夕食のおかずに変身。この光景は強烈で、小学生の食欲をそいだ。今も鶏肉は好きではない。
  山羊・兎も飼った。山羊の乳は沸騰させ、雑菌を取り除く。病人の栄養になると喜ばれた。兎をおもちゃのように可愛がり草を食べさせた。大きくなると襟巻の業者に売られていった。
  畑には、金柑の木が数本あり、おやつは、自分でもぎ取り食べるように言われていた。毎日の事だから、やはり飽きてしまい、今も金柑には手が出ない。


     小学校の記憶
  昭和21年第2小学校に入学した。2年生になり、校名が宮崎市立小戸小学校と変わり違和感を覚えた。戦前までは学校の名称は管理しやすい数字が付いていた。戦後は地名や区名に変更したのだ。
  ランドセルの代用は、兄が身につけていたカーキ色のカバン。これでは味気ないと、ふたに赤い椿の刺繡をあしらったものを背負った。教科書は、どこからか借り、粗末な紙に移したものだった。授業は午前・午後組の2部制。6年間裸足で過ごした。
  私の洋服は姉妹のだぶだぶのおさがり、ところが24年天皇陛下の地方巡行で参列と聞いた母は、早速気に入っていた絽の着物を私の洋服に仕立てた。炉は透けて見え、そのニュウ・ファッションに大喜びした記憶がある。
砂田 紘子
シニアリポーターの感想

自給自足の生活は、子供とは言え良い面もあったが、そうでないものは今でも記憶として残り、特に食べ物は好き嫌いの原因になっている。