
- 平和館の入口と広告幕

- 原爆展・特別展の案内
米国が広島・長崎に原爆を投下してから67回目の8月6日と9日が来た。今年も8月1日から26日まで、川崎市平和館で「原爆展・特別展」が開かれているので見学した。長く川崎に住んでいるが、武蔵小杉駅の近くにある平和館に入るのは初めてだ。今年は川崎市が核兵器廃絶平和宣言してから30周年、平和館を開館して20周年の節目に当たる。そこで、広島・長崎の原爆投下や街の様子などの写真パネルに加え、沖縄県平和祈念資料館などで構成する日本平和博物館会議(注1)との共同企画による特別展として、「原爆と沖縄戦」に焦点を当てた展示コーナーも併設された。
1945年6月の沖縄戦のパネルでは、沖縄に上陸した米兵カメラマンが撮った「無差別に艦砲射撃を浴びせる米艦」、「民家を焼き払う米兵」、「立て籠もり抵抗する日本兵を攻撃」などの光景写真が36点、「ひめゆり学徒」と呼ばれる旧制女学校生たちが沖縄戦に巻き込まれ命を失っていった時々の写真25点が展示されている。写真はどれも凍りつくようなむごい記録だが、特に沖縄の若者の集団自決の写真には立ちすくんでしまった。沖縄戦では、全戦没者20万人のうち10万人の沖縄県民が犠牲になった。それを物語るように、山が平らになるほどの米軍の爆撃と鼠一匹逃がすまいと火炎放射器で襲った場面などの写真でいっぱいだ。2001年に米国が「9・11」(注2)の報復として、巨大な軍事力で襲いかかったアフガン戦争がダブってみえる。
写真の他には沖縄戦場の「手榴弾」や「銃剣」、「鉄兜」などの実物資料が展示されている。
原爆展の写真パネルは、展示点数は少ないものの、広島と長崎の「原爆きのこ雲」や「破壊された広島県産業奨励館」、「崩壊した浦上天主堂」(長崎)、「熱線で溶けた人の姿を残した影」(広島)、「病院に収容された被爆者」(長崎)、「枠だけ残った市電」(長崎)などがある。また、特別協力で東京大学が被爆量の研究に使用した鉱石」などの収集試料も展示された。私も何度か沖縄の戦争資料館や壕、広島、長崎の原爆資料館を訪れ、悲惨な場面の写真や遺品を見てきたが、見るたびに人間の極限の行為だと戦慄を覚え、同時にあの戦争に突き進んでいった日本軍や為政者、それに誘導された世論に言いようのない苛立ちを覚えてきた。
平和館の専門調査員の暉峻さんによれば、8月は生憎、沖縄や長崎、広島でも現地で展示会を開くのでパネルなどの資料を多くは借りられないとのこと。それでも毎年3,000~4,000人の入場者があるという。8月11日にはこの平和館でパキスタンやアフガニスタンで29年にわたってハンセン病や貧困層の医療活動に携わり、しばしば襲う干ばつの対策のために井戸掘削などに挺身してきた中村哲氏が、「平和」というテーマで講演するので、多くの人に来てほしいと暉峻さんは言う。年々減っていく戦争に関する資料や写真、人々の記憶、語り部たち。世代が代わるにつれてあの狂気の時代や戦争が風化したり美化されるようなことはあってはならない。その為にもこの「原爆と沖縄戦」の展示は意義深い。
(注1)日本平和博物館会議;「平和の実現を目的として博物館等が協力して調査研究を行い、平和推進運動の発展を期する」ため1999年に設立。広島平和記念資料館、長崎県原爆資料館、沖縄県平和祈念資料館、川崎市平和館など10機関で構成。
(注2)「9・11」;2001年9月11日に米国で発生した航空機による4つのテロ事件の総称。