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今こそ、震災を風化させず、地域を見直す

取材日 2013年03月17日(日)

現実はあまりにも厳しく続く

現実はあまりにも厳しく続く

対話でつかむ未来

対話でつかむ未来

わが地域での試み

わが地域での試み

 表題フォーラムが、有馬・野川生涯学習支援施設(アリーノ・山口定男館長)で開催された。 会場には、現在の被災地を伝える新聞の展示『思慕 祈り』(たなびく煙は、瓦礫の処理場。)の見出しと、祈る人を遠景に捉えた写真が並ぶ。
忘れない努力』:山口館長は黙祷に続き「人として忘れて行くのも仕方ない、しかし忘れない努力も必要。東日本大震災後二年、気持ちを新たに地域と協働して防災に取り組む為に、今回企画しました。 」と挨拶。
日々の防災努力』:講師の浅見健一氏(元仙台市高砂市民センター館長)は、被災当時に受けた川崎市の応援に対する感謝の言葉で始めた。児童館・ディサービスも併せ持つ地域の中核の施設で、収容人数は400名。 指定管理者として仙台市の消防局の職員の経験を生かして、防災の企画を立て自治会に働きかける。前年のチリ大地震による津波警報が出た時には、行政より住民の受け入れを要請されていたのです。

厳しい決意』:しかし今回は「行政の支援は得られませんが、皆さんの命は必ず守ります。」と館長の職を賭して宣言した。それは、東日本大震災の日。仙台港河口から、4kmの市民センターにも津波は繰り返し遡上し、黒い帯となって迫った。立地上避難者が殺到し、最大時には1200名以上の人であふれ返る。対応する仙台市も混乱していた。
 津波に流された全身黒い油まみれの女性が来所。避難した方が協力して身体を洗い、有り合わせの肌着を身につけてもらう。市へは毛布の援助要請をしたが、「指定避難所でない。」との理由で断わられたのです。
知恵と、自ら動いて、道を切開く』:浅見氏は「何としても生きて欲しい」の強い気持ちのみで、イベントを協賛広告で応援して下さったスーパー、商店、事業所、友人らに自ら出向き交渉して食材を集め、ガスは瓦礫の中から見つけ出し、翌日から一日三食を可能にした。
 パソコンで避難された方の情報を整理し、安否確認に来所された方に対応する。他の避難所で断られた障害の子を持つ方には別の部屋を準備し、外国人の方には分散して地元の方と交流するなど、きめ細かに対応した。

今の時代ならの全国展開』:やがて口コミやネットで、「行政に頼らない避難所」として奮闘ぶりが伝えられ、毛布、水、食料、肌着などが全国から届き、他の避難所や被災地に送る。支援した送り手には、礼状と配布先の写真を撮り報告した。
 住民自治を基本に、館内ルールとして、酒、タバコを禁止。守れない人には心を鬼にして、夜間でも他の避難所に移る手配をした。
 「非常時にはトップダウンで、不都合が出たらその都度修正していけばいい。」のスタンスで、枠にとらわれず陣頭指揮をとった。

川崎市の町内での取り組み』:休憩の後、区役所の佐々木龍一氏(地域防災担当)、有馬町会の永野勝氏(防災担当)、山口館長を交えてのパネルデスカッション。パワーポイントを使用して、「自助・近助・共助」をアピールし、参加者の質問にも具体的に答えました。
 地震の前、直後5分、15分、30分、そして避難所への行く決定のタイミング、家屋の倒壊が発生した時の重機の手配(植木の里と呼ばれ、造園会社の方が、小型重機を所有)
 インタビューした若いお母さんの「仙台から震災の一ヶ月前に転勤。これからはお役に立つ事をしてゆきたい。」のメッセージが印象的でした。
有馬・野川生涯学習支援施設(アリーノ)
平野貞則
シニアリポーターの感想

 震災の日から二年。確かに一時ほど関心が無くなったのも事実です。原発、南海トラフ大地震、経済と課題は多いです。今回の浅見氏のお話は、語り尽くせないほど多くのエピソードがありました。「目の前の人を助けるのに、自分の全ての力を出し切りました」との言葉を、これからもシニアとしての活動に生かします。   平野貞則

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