
- 平成15年植え替えの弘法の松

- 橘樹郡衙正倉跡地
日本地名研究所主催の連続講座「川崎の村境を歩く」に参加した。
現在、川崎市に村はない。明治の初め頃の川崎の村境を歩き、史跡を訪ねた。
参加者は老若男女25名。
3月24日:「新城村・上小田中村・下小田中村境を歩く」
この平坦な地の村境は二ケ領用水であった。
現在は使われていないが実に隅々まで用水路が張り巡らされていた。
用意された3種の地図を見ると
明治14年の地図は田畑の区割りがほとんどである。
昭和17年の地図も田畑が多く、家屋の大小が見られる。
平成22年になると田畑に替わって住宅がほとんどを占める。
4月7日:「千年(ちとせ)村・野川村・子母口村境を歩く」
村境は崖であった。千年神社わきの「あぶ坂」は地形が地名になった例でアブはアズに通じ、崖を意味する。長い急坂を登るとその高台に住宅地が開ける。
「高津区ふるさとの森」は緑がいっぱい。千年伊勢山台の橘樹郡衙正倉跡や影向寺周辺の坂道に立つと、遥か奈良時代の地にいるような気分になる。
4月21日:「高石村・五段田村・王禅寺村境を歩く」
丘陵地の村境は尾根筋と崖であった。「水暮」は「水呉れ」で水不足の開墾地を意味する(字が変化した地名)。昭和30年の地図では等高線のみの山地だが平成22年では一面住宅である。弘法の松は今後どのような変貌を見続けるのだろう。
5月12日:「作延村・溝口村・久本村境を歩く」
村境は七面山尾根伝いである。その麓の根方掘りは江戸時代の地図に悪水と表記された平瀬川と合流しよく洪水を起こした。現在の平瀬川は整備されているが、涸れた昔の平瀬川の跡が民家の間に多く残っている。円福寺の急坂や崖などアップダウンが多い。農耕の神を祀った赤城社や神明社などがある。
参加者の感想
「参加しなければ歩くことはなかっただろう処を歩き、説明は興味深かった」
「地名は歴史そのものだと思った」。