シニアリポーターの取材リポート リポーターが取材したイベント情報をご紹介!

かわぽ散歩(1) 大山道“江戸から都へ東海道の裏道

取材日 2014年09月24日(水)

岡本太郎作 岡本かの子文学碑「誇り」
岡本太郎作 岡本かの子文学碑「誇り」
大貫家の業績をたたえる案内
大貫家の業績をたたえる案内
川崎市内のシニア向け散歩コースを歩いて調べ、紹介してゆきます。
江戸時代に東海道の裏街道として整備された矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)、別名「大山街道」の二子・溝口間を歩いた。大山道は江戸時代将軍家の乳母として二代将軍徳川家忠に仕えた春日局が、家光を将軍とするよう大山不動に祈願し成就したというエピソードがあり、晴れて三代将軍となった徳川家光は大山寺への多額寄進を重ね寺の発展と街道の繁栄が続いたと云われている。
江戸時代の二子・溝口村は、寛文9年(1669年)に継立村(つぎたてむら)となり、その後久地・諏訪河原・久本・長尾の4村が二子村、北見方・上作延・下作延の3村が溝口村の助郷村(すけごうむら)となった。今回は二子村の今も残る歴史の痕跡を辿った。
 用語の説明 
 (1)街道:道中奉行所が管轄し、運輸・通信・休泊の機能を備えている。
 (2)往還:公用旅行者のためで伝馬・人足・休泊の機能を有し継立村を備える。
 (3)助郷村:宿場で伝馬・人足が不足の場合提供する村。これは農民の負担であった。
コースは田園都市線二子新地駅から梶が谷駅まで、全行程約2.8Km標高差27mの通称旧大山街道を散策。
二子新地駅より西北へ約600mで旧大山街道に入る。 直進すると二子神社がある。境内には岡本太郎作の母親でもある岡本かの子の文学碑「誇り」の彫刻があり、丹下健三の設計した台座にはかの子の俳句、「としとしにわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり」がある。
境内の横は多摩川の土手、右手に二子橋が見える。 橋より街道を下ると道路に小さな道標「旧大山街道二子の渡し場入口」がある。 川を渡る手段として渡し船が街道を通行する人の手段であった。
 街道に戻り南へ4,5分歩くと左手に大貫家跡を見て、少し先右手の光明寺山門に着く。大貫家は江戸時代御用商人の商家で、雪之助、かの子兄弟の実家である、現在はマンションが建ち、道路際の巨木と大貫家跡地の道標が僅かに残るのみである。雪之助は島崎藤村の門下生で、ロシア文学のトルストイやツルゲーネフの作品を日本で初めて翻訳したという先駆的業績を残し24歳で亡くなった。光明寺境内には大貫雪之助の墓が在る。 この寺の本堂には明治時代に学習塾(二子舎)が設けられ、近代小学校の先駆けとなった。二子宿は400mほどで終わり、つづいて溝口宿である。次回は溝口宿を訪れます。
  
街道に高くそびえる大木、今に残る大貫家の面影

街道に高くそびえる大木、今に残る大貫家の面影

岡本かの子の文学碑

岡本かの子の文学碑

光明寺山門 横に大貫雪之助や二子舎の案内板がある

光明寺山門 横に大貫雪之助や二子舎の案内板がある

大山街道二子宿
望月正一
シニアリポーターの感想

何気なく通り過ぎる街角、注意して左右見ながら歩くと、その景色の中に歴史の中の光景が浮かび上がる事もある。それが交通の要所で宿場であると、歴史上の人物の生い立ちや、泊宿の人々の人間関係が見え隠れする、こんな事を思い歩いてみた。

訪問者数訪問者数:3033
評価数8 拍手
拍手を送る
このページを印刷する
  • 取材リポート一覧へ戻る