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川崎はどのようにしてここまで来たか。そして今後は(第1回)

取材日 2015年04月28日(火)

塩浜陸橋付近。昔の海辺と陸地の境目
塩浜陸橋付近。昔の海辺と陸地の境目
爆弾を投下するB29(川崎市平和館提供)
爆弾を投下するB29(川崎市平和館提供)

わたしたちの住む川崎は、明治以来どのような過程を経て現在に至っているのかということを知りたくて本レポートを作成した。第1回では、川崎の工業地帯の始まりを調べた。第2回では、工業発展の陰で起こった環境面の弊害である公害問題を取り上げる。

以後、日本でも有数の技術を持った企業が育ってきた様子に目を向ける。さらに川崎の公害防止技術が他国にどのように役立っているかを紹介したい。


工業地帯の成り立ち

川崎の臨海部は、江戸時代、塩田(大師河原塩田)を行う浜として始まった。

その後、明治時代になって1907年には本格的な工場として横浜製糖が設立された。その後も工場誘致を行い、これが工都・川崎の始まりとなる。1908年には今の幸区に東芝の前身となる東京電気が工場建設に着手し1909年から操業を開始した。さらに同じ幸区に1925年から翌年にかけて、横浜製糖を吸収合併した明治製糖の工場に隣接して鉄筋コンクリート4階建ての近代的な明治製菓川崎工場が新築され、チョコレート、ビスケット、キャラメルなどの製造を開始した。

川崎の臨海部の埋立は、1913年に始まった。その後1940年前後には水江町まで終了し、そこに製鉄・石油化学等の工場が立地するようになった。

 

第二次世界大戦の勃発とともに、川崎は空襲にさらされた。1942418日の米軍による初めての本土空襲でも、攻撃目標になった。その後、1944年以降空襲が本格化するとともに、川崎に何度も米軍機が飛来し、その度に被害を受けた。1945415日に200機余のB29 による大規模な爆撃を受け、市中心部と南武線沿いの工場が集中している地域は、壊滅的な被害を受けた。それでも戦後の住民や企業の復興活動により川崎はよみがえる。

 

1960年代には浮島町に石油コンビナートが形成され、他の工場施設とともに日本の高度成長を支えていくことになる。

 

このように工場施設の集積が進んだのは、周辺の他の地域に比べ地価が比較的安価であったこと。すでに港としての機能があり、工業生産のための原材料の搬入がしやすく、工業製品の搬出がしやすいという条件が整っていた。さらに大消費地である東京に近接していたことも理由としてあげられる。

 

しかしこの後、工業発展の陰の側面が住民を苦しめることになる。(第2回に続く)

 

 

 

 

B29により破壊された精油所(川崎市平和館提供)

B29により破壊された精油所(川崎市平和館提供)

東扇島海浜公園より浮島町の工場地帯を臨む

東扇島海浜公園より浮島町の工場地帯を臨む

東扇島の林立するクレーン群

東扇島の林立するクレーン群

川崎市環境局発生源大気担当 川崎市環境総合研究所 川崎市平和館 塩浜陸橋付近 東扇島
新谷昌己
シニアリポーターの感想

静かな漁村であった川崎の浜は、近代化の波とともに工業地帯に生まれ変わり、川崎の工業地帯は他の工業地帯ともに日本を引っ張っていくことになる。第二次世界大戦では壊滅的な被害を受けたが、驚異的な回復力により再びよみがえった。私たちの先輩にあたる人たちの強靭な精神力を感じた。

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