疎開はみのぶ・・・
ステーキはレアに!
なす ナス 茄子
「学童疎開はしましたか。」の受け応えに「疎開は身延山へ」と話した人に会ったのは7月。2か月後に、疎開は身延へとさりげなく話してくれた二人目に出会えた。
四谷区(新宿区)の学童は?
激化する戦争から子供を守るために縁故疎開を推奨していた。昭和19年20年政府は学校丸ごとの集団疎開を命じた。四谷区第四小学校から第七小学校の学童は山梨県身延山へと決る。身延町の旅館や宿坊に、先生・寮母など約1300名が分宿した。ご時世とはいえ、学童を受け入れるには、多くの困難があった。お国の為、おかみさんたちは、助け合いながら一生懸命世話をし続けた。 終戦と同時に学童の引き上げは始まった。しかし親を亡くしたり帰る家がないと言う様々な状況下で、引き上げは11月まで待たされた学童も居た。
四谷第四小学校出身 佐藤さん
4月入学式を迎え嬉しい1年生になるはずだった。入学式は無く身延に即集団疎開となった。とにかくご飯がちょっぴりでひもじく辛かった。姉も同じ旅館だったので寂しくはなかった。 四谷には牛舎があった。日中の激しい機銃掃射で跡形もなく焼けた。飼われていた乳牛も丸焦げになった。兵隊さんが丸焦げの牛を運んで行ったと聞いた。焼肉を食べたのかな。四谷は焼け野原となり、家も焼かれ戦後は親戚の関係で男鹿半島へ引っ越し三年後に戻ってきた。
四谷第五小学校出身 長塚さん
4年生で身延山に疎開した。とにかくお腹がすいた。道端に干してある豆を拝借した。山葡萄もちぎって食べた。なすだけの味噌汁が続いた。昼間は、のんびりとB29が富士山の方へ飛ぶのを眺めていた。地元の学校とは、別の時間割で勉強し、いじめられる事はなかった。終戦後は、父の実家がある伊勢原へ引っ越した。