ある待合室で数年ぶりに森川さんに会った。92歳の彼はとても元気。雑談の中に、貴重な戦争体験をいとも気軽に語った。早速体験記を書いていた所、1ヵ月後にワープロの手記が届く。今回は第1と第2に分けて記します。
森川さんは(小学2年生)1939年 新聞記者の父の転勤に伴い、家族5人で満州の新京に引越。新京(現在は長春)は中心街で現在の東京みたいな大都市。食べ物もおいしく裕福な町。町には映画館もあり有名な俳優や歌手が慰問で来ていた。 戦況が一層厳しくなる1945年新京の街は、物騒になり始めた。ソ連兵の侵入・中国人同士の小競り合い、町は戦々恐々。日本人会は市民を守る自営団を組みピストルも所持。特にソ連兵の乱交は目に余るものだった。 敗戦後は、死との隣りあわせの日々。食事も事欠く。母は古着を食べ物に変え一日一日命をつなぐ。多くのの男性はソ連へ連行された。残された女・子供は即刻日本へ引揚げる事になる。
1946年(昭和21年)の4月森川さんは母と兄弟で日本へ引揚げたが、父はフィリッピンへ徴集されたままだった。恐怖の中、近所の方と新京を出発・奉天を通過引揚船が出ると言う葫蘆島(コロ島)の港に向かう。すぐ出港と思ったら、集った群衆にコレラやチフスが流行、3か月間いったん収容所に留まった。
1946年(昭和21年)7月に出航 1万トンのアメリカ貨物船に乗船。 森繁久彌さん木暮美千代さん等の俳優も乗船していた。毎日カラオケで楽しんだ。面白かった。食事はスープや乾パン。しかし走行中に、病で亡くなると水葬し、船は汽笛を鳴らし一周して、目的地博多へと向かった。
満州について 日本が中国大陸にある満州国を侵略し13年間支配した。日本からは豊かさを求めて移住する若者も。敗戦で180度転換した社会は劣悪な環境へ、人々は路頭に迷う。170 万人が満州や近隣国に取り残された記録も。
森繁久彌さん 若いころNHKのアナウンサーとして入局し満州に赴任した。戦後は独特の声・歌声で観衆を魅了する昭和の国民的な俳優