「今年87歳のAさんに、戦争体験の取材を始めて2週間ほど経った頃、Aさんが珍しいものがあると、黄ばんだA4ぐらいの紙を広げた。」
満州安泰線管原壱号
Aさんは、7人兄弟の末っ子として満州で生まれました。その記録が残る戸籍謄本こそが黄ばんだ紙でした。「満州安泰線管原壱号 昭和12年9月5日生」とあった。
父は、青森県出身で地元の鉄道会社から、満州鉄道に転勤しました。私が生まれ、にぎやかな9人の大家族となりました。近所の中国人にも可愛がられ何不自由なく過ごしました。昭和20年敗戦後は、日本人は満州から引き上げねばなりません。私はここが好きでした。中国人は特に優しく、このまま一緒に居たいと思いました。今でもその思いは、忘れられません。
昭和19・20年終戦(1944.1945年)の満州は
昭和15年(1940年)までの日本は、日中戦争に勝ち勢いがあり、満州は豊かでした。昭和16年(1941年)真珠湾攻撃で仕掛けた戦争からは、日本人の生活は一挙に逆転しました。昭和19・20年は、生きる事さえ難しくなりました。中国・ロシアは条約を破り満州へ侵入しました。近所では、殺人・婦女暴行等、事件が毎日起きていました。
姉さんの決断と帰還
Aさん宅に、八路軍(日中戦争時に華北で活動していた中国共産党軍の通称)から女性を差し出せと要求してきました。余りに恐ろしいこの要求に、家族は悩み、どうすることも出来ませんでした。家族会議中に5女の姉さんが「私が行きます。」と言ったのです。姉に手を合わせました。
この日から姉の消息はわからないままでした。 敗戦の翌年、家族9人中、先ずは4人が満州を引き上げました。しかし、八路軍に連れていかれた5女の姉を残して、先にひき上げるのは、本当に忍び難かった。日本にひき上げ数年たっても、消息が無い日々を過ぎ、あきらめかけていました。
昭和29年舞鶴港から、姉が「あちらで良い人に恵まれ結婚し、今日本にたどり着いた!」と確かに姉の声で連絡が入りました。「良かった、良かった」と皆で小躍りして喜びあいました。これは奇跡だと思います。奇跡はこれだけではありません。(次回)