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戦争体験記 21 終戦をこうして迎えた

取材日 2025年11月27日(木)

  大好きな兄ちゃんとパチリ

  大好きな兄ちゃんとパチリ

    アレ B29だ!

    アレ B29だ!

  玉音放送を拝聴する

  玉音放送を拝聴する

  今年91歳のAさんは長身で体格も良く年齢より大変若く見える。「じゃ!さようなら」颯爽と自転車をこいで走り去った。Aさんが、戦争体験を話す前に足を見せて「僕は小児マヒにかかった」と一言。二本の足の太さが違っていた。長身の片方の足は力強くたくましい足、片方は半分の太さだった。 幼児の時小児麻痺の病気にかかった後遺症。僕は色々な治療を受けた。高周波の治療も受けたが、片足はマヒしているので高周波からくる痛みはなかったと屈託なく話した。

  小児麻痺は、幼児5歳までの子どもに罹患する病気、元気になっても身体のどこかに後遺症が残る厄介な病気。特に1960年代に北海道では5000人の子どもが発症。予防接種を打つようになる。ポリオワクチンだ。この効果は抜群にあり急速に発症は終息。ここ数年は発症例の報告はゼロ。厚生省HPによる。

終戦をこうして迎えた! 
  世田谷区に住むAさんは二人兄弟。兄は中学校に通い自分は世田谷区立守山小学校に通っていた。昭和19年集団疎開は避けられず世田谷区の小学生は長野県と決められ行く先は長野県飯田市長清寺。小さい時に小児麻痺を患い後遺症が残る子供の疎開に、親は大変心配した。長生寺での疎開生活は、檀家さんや近所の方々の奉仕により食事等何不自由なく過ごした。田舎だから戦争の厳しさはなく、B29を空に見つけると眺めて過ごす毎日。

 日常生活で仲間に「ちんば」と呼ばれいじめにあっていた。(ちんばは現在禁句だが、当時のご本人の心の傷の深さは如何ほどのものかと思い使用) 両親はそんなAさんを不憫に思い、父の仕事先の新潟に疎開をかえる事にした 昭和20年8月14日両親が東京から迎えに来た。長生寺を出発し、長野駅に向かった。駅に着いたときは、新潟に向かう汽車はすでに出発し乗れなかった。その夜は長野駅前の旅館に1泊し、翌朝新潟へ向かう事にした。両親と久しぶりに過ごして嬉しかった。
 
 翌朝、いきなり正午に重大発表があるからと旅館に留まるように言われた。何の事かわからないが、とにかく両親とその時を待つ。正午の玉音放送「堪え難きを堪え忍び難きを・・・・」の声に驚いた。近辺は言いようもない哀しい空気に。兎に角この事実を目の当たりにして大人は勿論子供もどう受け止めたらいいのか。もう疎開は必要ないのか。どこへ帰ればいいのか?次々と疑問が湧いた。世田谷の家は、5月の爆撃で焼失。両親はとりあえず知り合いの家に行こうと決め、3人で汽車に乗り矢向駅に向かう。終戦をこうして迎えた。

2013年旧世田谷区立守山小学校は生徒数減になり近隣の学校に統廃合され、新しく生まれ変わる。「まもりやテラス」複合施設となり区民に愛されている。
砂田 紘子
シニアリポーターの感想

8月15日の終戦を対峙した国民の状況はいかに大変だったものか、やはり戦争は決して、起こしてはならないもの。小児マヒは、大変恐れられた病気だが、今は殆ど知られていない

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